まつきあゆむは実在するのか──
“木を見て森を見ず”ということわざは、木が「ある」ことを疑わない。「見える」ことの不思議にも無頓着で、結局それでは、木も森も見ることなく死んでいきそうだ。
「あれは森ではなくパセリですよ。ところでその“森”ってなんです?」
当たり前のことを、ひとつずつ問い直してみると、何もかもが分からない。
この世界から視覚をもった生物がいなくなっても、夕日は赤く、パセリは緑色なのか。色彩は「ある」のか。「ある」ものは、なぜ「ある」のか。
夢と現実、現実と虚構、精神と肉体、意識と無意識、二次元の彼女と三次元の彼女。
『1億年レコード』や『あなたの人生の物語』でも言及されていることだが、そのように二元論で比較することが、思考を止めてしまう原因なのだろう。
結論だけを言えば、それらは区別するまでもなく、同等に価値を持つものだ。
しかし、新曲の嵐で発表されている最近の歌詞から察するに、彼はまたそこに疑問を持ちはじめ、さらに強度のある結論を導きたいと考えているようだ。
冒頭にかかげた設問、まつきあゆむは実在するのか──
現在の彼について、私が何かを書き得るとすればこれしかないと見立てた問いかけだが、奇しくもそれは彼自身のテーマとも重なるのではないだろうか。
思い返せばその昔、『ゆるゆり』のヒロイン「あかりん」の存在感がどれだけラジカルであるかを熱弁していた頃には、すでにその兆候があったのかもしれない。存在しないことによる存在の表現、という話だったと記憶する。
あれが酔狂ではなかったとして、その流れを汲むとすれば、私が現在のまつきあゆむに不足を感じ、歌ってほしいのはレクイエムだ。アンセムではなく。
実在しないまつきあゆむ、つまり、死者としての彼の視座はどのようなものか。
今回のアルバムに収録されるかは分からないが、たとえば「My Old Song(midnight)」はかなり近づいている。
歴史的な大地震と大津波。時計の針は止まった。回るレコードの針も飛んだ。どちらの針もまだ動いているようには思えない。
その針をふたたび動かすことは容易ではないだろう。
容易に動かすべきでもないだろう。
しかし、まつきあゆむなら、まつきあゆむとなら、それが可能であると私は信じている。
2013.06.01 本田“phonda”洋介